blog

スペインの旅

スペインの旅

 

昨年は結婚30周年でドイツを旅しましたが今回はスペインです。日にちと人数の関係で一時ポルトガルになりかけましたが行けることになりました。

ガウディーの教会、明るい日差し、派手な色彩くらいしか思い浮かびません。スペイン通の畑先生にマドリッドは人がこすっからいけどバルセロナは人懐こいカタルーニャ人で安全だし温かいといわれたもののピンときませんでした。

 

7月1日(月) 1日目(機内泊)

成田では視界が悪いからと1時間ほど出発が遅れ、トランジットのドーハで2時間待ち、17時間かかってマドリッドへ到着。機中映画「万引き家族」、「Tomb Laider」、「Me before you」、「Dream(Hidden figures)」の4本を鑑賞。週間金曜日1冊、「空海の生涯(由良弥生著)」を3/4読破。途中伸びをしたり足首を回したり。ビジネスでいけないのが辛い所。

 

 

7月2日(火) 2日目(マドリッド着)

空から見たマドリッドの景色は周囲が畑なのか茶色の所が多く、スペインの大地という言葉を思い出した。バスでホテルについて何もやることなしバスに乗り込むと時計の時刻表示が全く合っていない。ホテルの時計でも同じらしい。お国柄か。ガイドさんから自分の時計だけを信じるよう言われる。。ホテルから近くのショッピングモールまでシャトルバスが出ていてお土産の大半を買ってしまった。夕食はホテルのレストランで。ビールが美味しい。

 

 

7月3日(水) 3日目(マドリッド観光→古都トレド)

マドリッドは標高650mのナセタ高原にありヨーロッパの主要都市の中で一番標高が高い。緯度は北緯40度でニューヨーク、北京、日本では新潟と同じくらい。この季節は夜10時半まで明るい。得した感じ。

マドリッドは1561年フェリペⅡが首都に定め、それまでは午後に行く古都トレドの北の守りとして要塞だけの町だったらしい。この季節では殆ど雨が降らないのだが昨晩は雨が降ったらしく路面が少し濡れてる。朝は涼しく散歩するにはちょうどいい。日向にはいるとさすがに厚くこの日は最高気温35度であった。帽子とサングラスを持ってきて正解だった。日傘を差しているのは日本人だけ。

プラド美術館にて

マドリッドにはつい先頃まで排ガス規制で10年以上前に作られた車は市内にはいる事ができなかった。しかし、政権が代わって規制が緩くなって車が以前より増えた。また、今は夏休み(6月20日から3ヶ月間)で子供と奥様は郊外の別荘にいてご主人だけ車で市内に出勤という方が多いため交通量は普段より多い。私たちのスケジュールも交通渋滞で遅れ気味。まずはベルサイユ宮殿を模した王宮、スペイン広場を横目で見てプラド美術館へ。ここはスペイン王家のコレクションを基礎に作品を集めている。王宮はもっとじっくり見たかったな。ヴェラスケスのラス・メニーナス、エル・グレコの聖三位一体、ゴヤの裸のマハなどガイドさんが作者の人柄や絵の描かれた時代の背景を織り交ぜて説明。とても面白かった。それにしても何百年経っているのに色あせてないのが驚いてしまう。スペインでは観光地でガイドするのに必ずスペインのローカルガイドがいないといけないという法律があり日本人ガイドを頼んでもスペイン人のガイドが必ず付くことになっている。ガイドの生活を守るためらしいがコストパフォーマンスは悪い。さすがは人口4000万人なのに観光客数は8000万人をこえる観光立国。因みに勝手にガイドをしてつかまったら罰金1000ユーロらしい。

プラド美術館の前に1584年11.25日に天正の少年使節4人がフェリペⅡに謁見した教会がある。中に入って見学できた。彼らと同じものを見ているなんて感慨もひとしお。そのころはスペインの黄金期。「太陽の沈まぬ国」と言われ(スペイン語でスペインを表すエスパーナはギリシャ語で太陽の沈む国の意)ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、アジアに植民地のあった頃だ。フィリピンの名前もフェリペⅡに由来する。

少年使節がフェリペⅡと謁見した教会

 

美術館の後はパエリアを食べて古都トレドへ。ローマ時代からの要塞都市だ。6世紀に西ゴート王国の首都に。711年からはイスラム教徒が支配し、1085年にレコンキスタでカステーリア王国に再征服される。1492年にユダヤ人に国外追放令が出るまでユダヤ教徒も住んでいた。マドリッドはトレドを守るための要塞だった。旧市街は2/3をタホ川というポルトガルのリスボンまで流れる川と崖に守られている。道は騎馬兵が集団で来れないように狭く直角に曲がっている。所々に階段もある。道に迷ったら出て来れないのでその場から動かないように言われる。地震がないため石とレンガと粘土で固めた壁は何百年経ってもそのまま残り傾いていても倒れない。震度1か2の地震で沢山倒壊するのではガイドさんが言っていた。瓦屋根は琉球瓦に似ている。瓦もイスラム文化が発祥でそれが中国を経て日本へ、沖縄へと伝わったらしい。以外に繋がっているものだ。市の高い所(一番征服されにくい所)にはいまでもスペインカトリックの首座大司教座のある大聖堂とイエズス会本部、異端裁判所(今は市役所として使っている)などの建物がある。長崎のカステラはイエズス会の修道士がカステーリャ地方の何とか言うお菓子を大友宗麟に献上しその名前は伝わらずカステーリャの名前だけ伝わった所から来ているとの事。おじやもスペイン語の煮込み料理のojaから来ているらしい。

古都トレド遠景

スペイン内戦の時にフランコが立てこもった要塞(アルカサル)があるのだが予定に入っておらず見れなかった。

いいところの家の窓には敵に女子供を連れ去られないよう鉄格子が嵌めてある。ヨーロッパの戦争は必ず市民が巻き添えになり負けると男は奴隷に女子供はさらわれてしまう。車も入りにくい所なので旧市街は若い人が住まなくなりどんどん新市街へ移っているそうだ。川で鯉を釣っている東欧からの?人たちがいた。彼らには鯉はご馳走だそうだ。地元の人は食べない。

グレコの聖オルガスタ伯の埋葬の絵画のあるサントトメ教会を見学し帰途に着く。爆睡。

 

 

7月4日(木) 4日目(コンスエグラ→コルドバ→セビリア)

白い風車の残るコンスエグラはカステ-リャ・ラマンチャ州のラマンチャ地方にある。この地方はぶどうの生産が盛んで昔は安かろう悪かろうだったらしいが今は安くて質のいいワインを生産している。スペインのぶどう作付け面積は世界一だがワインの生産量は世界第3位。コンスエグラのコンは一緒、スエグラは姑という意味で昔ここの領主に嫁いできた美人のお嫁さんが姑と一緒に嫁入りしたのでこの地名が付いたそうだ。小高い丘の上に小麦の粉を引く水車が残されている。1基は今も使われている。風も心地よく青空も素晴らしい!

高台に立つ風車

 

午後からコルドバへ移動。コルドバはもともとはローマの植民地でアンダルシアの中心地。ローマ皇帝ネロの家庭教師で哲学者のセネカはこの町で生まれた。8世紀からイスラム教徒の侵入が始まり10世紀には人口100万もいたという。当時コルドバと肩を並べるのは東ローマ帝国のコンスタンチノープルだけだった。レコンキスタでイスラム教徒が去ってゆくと衰退。現在は人口30万人。コルドバといえばメスキータ。アルハンブラ宮殿より500年も前の建物。アラビヤ語でモスクのことだがそのままメスキータと言っている。785年に建設が始まり増築を繰り返す。13世紀にキリスト教聖堂に転用され、16世紀には内部の一部を壊され、中心にカテドラルを建設される。こんな立派な所を壊してまで礼拝堂を建てるなんて何を考えているのだろう?領土の分割をおそれた王族が血族結婚を繰りかし、頭のいかれた王様が誕生してしまったようだ。

入り口付近の柱はローマ時代の柱をどっかから持ってきて使っている。2重アーチの円柱の柱が800以上並んでいる床は大理石。外は暑いけどここはひんやりしている。。真ん中を壊される前は1000本以上あったそうだ。王様が祈りをささげるメッカの方向を向いたミフラーブと言われる壁はビサンチン様式の細かなタイル装飾がされており、周囲にも漆喰の細かいモザイク模様があり荘厳さを醸し出している。ここのガイドさんは日本語ぺらぺらのグラマーな美人ガイドさんでした。ルーッレッコンキスタとすごい巻き舌で発音して一同真似しました。

コルドバは皮製品が有名でコードバンの名で知られている。今まで馬の皮のある部分の名前かと思っていた。

華麗な装飾の礼拝堂をでてオレンジの中庭で外の暑さを思い出す。ユダヤ人街の狭い路の両側に花を飾ってある小路をたずね、パティオ(中庭)を見学した。中庭は暑い気候対策で涼を取れるよう工夫されている。年に1度中庭コンテストもあるとか。花々やつたで飾られ自分もこんな場所を作りたいなと思ってしまう。手入れは大変らしい。貧乏人の発想だな。お金持ちは人にやらせる。次の宿泊地のセビリヤへ。

 

 

7月5日(金) 5日目(セビリヤ→ミハス→グラナダ)

セビリヤはスペイン4番目の都市でアンダルシア州の州都。この町の歴史は古く紀元前10世紀にローマのカエサルによりヒスパリスと命名されローマの自治都市になった。西ゴート王国の首都になったこともある。8世紀以降はイスラムの勢力下でも発展。1248年からレコンキスタの基地として栄え始め新大陸発見以降アメリカ大陸の交易港として一段と繁栄。1519年世界1周のたびに出たマゼランもここの港から出発している。旅の途中で現地人に殺されているので戻ってきていないが。

朝食後まずスペイン広場へ。セビリヤのスペイン広場は1929年のリベロアメリカ万博(スペインと植民地だけの万博)を、1990年の万博の会場になった。映画アラビヤのロレンスやスターウォーズでも使われている。

広場を取り囲む回廊の大きさには圧倒される。1929年当時のパビリオンは今でも違う用途で使われ数多く残っている。大聖堂(ヒラルダの塔)にはコロンブスの墓がある。ここも見所満載なのだが大聖堂は外から見ただけ。コロンブスはジェノバ生まれのイタリヤ人、一説にはクロアチア人という説も。コロンブスはポルトガル王に西方探検を申し出たが断られ1492年にコルドバでイザベラ女王とフェルナンドⅡ(カトリック両王)に謁見し、許可をもらい援助を受けて旅立つ。死後は一時セルビヤのカルト修道院に収められるが自分が領主になっていたドミニカのサントドミンゴ大聖堂に移され、ここがフランス領になるとセルビヤの大聖堂に戻されました。生前も各地を転々としましたが死後も転々とする。南米でひどいことをしまくりましたから今だったらあんありっぱなお墓や記念碑が立つわけありませんが当時はスペインに富をもたらした大立者ですから。近年息子の遺骨とのDNA鑑定が行われ、セルビヤに残っている骨は本物と鑑定が出た。もっともある骨は一部らしくサントドミンゴにも骨が残っているらしい。

1492年はスペインにとって重要な年でこの年、レコンキスタ(イスラム教徒に奪われた土地を奪還する国土回復運動)がグラナダ王国の陥落により完成し、カトリック王国が誕生した。それでコロンブスの提案にも乗りやすかったし、異端審問など排他的な政策はコロンブスのスペイン軍に影響していたと思う。

セビリヤは海に面していないグアダルキビール河の内陸港。新大陸発見以降南北アメリカから奪い取った資源でますます栄えることに。町には貨幣鋳造所があり南米からの銀をつかって銀貨を鋳造し、ヨーロッパの貨幣経済を発展させました。銀山の労働者は厳しい労働にコカの葉を噛みながら耐えたそうだ。これがコカインへとつながってゆく。フラメンコのカルメンでお馴染みのカルメンが勤めていたタバコ工場は現在はセビリヤ大学になっている。

昼食はドライブインでとってバスで南下し白い村ミハスへ。アフリカのモロッコまでジブラルタル海峡を挟んで14kmしかない。天気がいいとモロッコが見えると聞いていたがぼやけて見えなかった。この距離だったら海を渡ってイスラム教徒が攻めれるわけだ。1時間散策の時間があり革製品とキャラメルや蜂蜜がけのアーモンドやひまわりの種などお土産に買った。ここは高台で眼下にプールつきの別荘がみえる。5000万円くらいで購入できるそうだが維持費はどうなんだろう? 結婚式を挙げているグループに遭遇したがイギリスから来ているらしい。イギリスからスペインまで飛行機代は3000円位らしい。

夕方グラナダに向けて出発。ホテルで夕食を食べてからアルハンブラ宮殿の夜景鑑賞とフラメンコドリンクショーというツアーに参加する。スペインといえばフラメンコ。セビリヤのフラメンコは舞台で踊るがグラナダのは洞窟の中で踊る。バスで丘の上まで行きお店の中の洞窟へ。洞窟といっても壁は白いコンクリートで固められ調理器具などが壁にかかって装飾されている。踊り手は女性3人、男性1人、歌1人、ギター1人と総勢6人。はじめにグラマーな女性が1人登場、次に妖怪人間ベムのべラに似たおばさんが出てきて、えーっていう感じ。更にもっと年上のばあさんが出てきて目が点になる。本当にすぐ目の前で踊りをみました。赤いストールの糸がほずれて長い糸が1本私の目の前に落ちて踊り手が足を踏むのに邪魔になりそう。踊り手さんは気にしていないが座ってみている踊り手の男性は時たまちっらと目を向けている拾うべきかそのままにすべきが葛藤する。女性が場所を移動した際にすばやく糸を拾う。隣の家内が何してるのと止めようとするがもう遅い。無事拾った。ガイドさんに寝ていると叩かれることがあるから気をつけてと言われていたのに私の連れは寝てしまい足を踏まれるかもとヒヤヒヤ。踊りだすと年齢は感じさせずさすがです。

売り上げの配分はどうなっているのだろう、あとで気になってしまいました。踊り手のお子さんらしい子がお店の隅で見よう見真似で踊っていたのがなんとも可愛らしかった。

その後にアルハンブラ宮殿の夜景を見てホテル着11時45分。グラナダのホテルは今回の旅の中で一番良かった。爆酔。

 

 

6日目 7月6日(土)(グラナダ アルハンブラ宮殿→バレンシア)

宮殿のすぐ近くのホテルだったので歩いて宮殿へ。結構緑が多い。アルハンブラとは赤い城塞を意味するアラビヤ語から来ている。宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。1232年にナスル朝の王宮として建築が始まったがその前に3000m級の山が聳えるシエラネバダ(ネバダ山脈)から水を引き貯水池を作ってから作り出したそうだ。中に入ると庭園、噴水があり予想以上に緑がいっぱい。建物の中はこれでもかというほど大理石、タイル、漆喰で装飾され贅の限りを尽くしている。

キリスト教美術もすごいけれどイスラム美術の方が格上な感じ。ALのつく単語はAl-lar(アッラー)、Algebra(代数)、 Alcohol(アルコール) Alchemy(錬金術)などアラビヤの影響を受けた言葉らしい。

イスラム支配の時にはユダヤ人など異教徒は追放されずそのまま居残れたがキリスト教の支配になってからその土地に住めなくなってしまう。キリスト教原理主義のほうがよっぽどたちが悪い。

日本の一夫一妻制度もユダヤ教の影響を強く受けているらしい。イスラム教は戦いで未亡人となった人の救済策で1人4人まで妻を娶ることが出来る。

アルハンブラ宮殿のライオンの噴水のあるパティオ周辺は王の居住地だがここの2階は200人の妾の部屋になっていそうそうです。あるとき妾の1人が宮殿内の有力な貴族の1人と関係を持ったと疑いをかけられ一族の男36人が呼び出され頸を刎ねられたそうです。頸が並べられたという部屋も見学しました。大理石の床で豪華な部屋でした。

ここにもステンドグラスがあったはずなのだが・・

当時は床に直接座って生活したらしく部屋は大概大理石の床です。王様の風呂は普通の風呂とサウナ、水風呂と3つ風呂がありその奥に音楽を聴きながらマッサージを受ける部屋もありました。ベーリーダンスを見ながら休むので出入りするマッサージ師は目を潰されていたそうです。

栄華を極めたナスル王朝も1492年終焉を迎えます。イスラムの王は無血開城し門の鍵をカトリック両王に渡したので宮殿が破壊されず改修されながら500年以上も前の状態を今に見ることが出来ます。

今日はアルハンブラでおなかいっぱい。次の宿泊地バレンシアへ向けて出発。今までは窓から一面オリーブの畑だったが、徐々にレモンやオレンジの木へ変化している。スペインのお米の90%はこの地方の産。だからパエリアはバレンシアが本場。今回の旅行で一番長いバスの旅。約6時間。

 

 

7日目 7月7日(日)(バレンシア→タラゴナ→バルセロナ)

バスでローマの植民地だったタラゴナへ。アウグスチヌスもこの地が好きで何度も滞在したそうな。ここにはローマ時代(2世紀)に作られた水道橋がいまも残っている。全町は35kmあったらしいがいまはそのうち200mほどが残っている。あまりに早く完成したので悪魔の橋と言われていたそうだ。想像していたのより大きい。

そしていよいよバルセロナのサグラダファミリアへ。

はじめは入場券が取れなくて入れないといっていたのだが代理店ががんばって入れることになった。はじめはモンジェイックの丘に案内といっていたのだが。メスキータとアルハンブラを見てきた後だけにそんじょそこらのことでは驚かない。そう思って中に入ると大きさとステンドクラスを通して入ってくる光に圧倒される観光客も多い。この高い天井の上にまだ天国の塔?が乗っかる。

完成が楽しみだが構造は大丈夫なのだろうか?近くには2本地下鉄が通っているし、もう1本地下を掘る計画があるらしい。建設当初は教会の前は草原で動物が出るような所だったが今は住宅が建ってしまっている。教会は土地を買い上げ計画の通りに建てようとしていて、地元住民から土地を取り上げるなと反対されているようだ。建物そのものはあと数年で完成するらしい。楽しみだ。

光がキレイ

お昼はパエリアのお米がパスタになったフィウディア。焼きそばだなこれは。そのごガウディが初めて手がけた個人住宅であるカサ・ビンセンスへ。玄関から部屋の中まで見学。帰りには玄関の隣の部屋でカヴァが振舞われしばし歓談。10時ごろホテル着。

 

 

7月8日(月) 8日目(バルセロナで自由行動)

オプションで奇岩の聖地モンセラ観光というのもあったが行かずに自由行動。チュロスのおいしいお店に入る。パエリアを食べる。自宅用にオリーブオイルを買うという予定で観光というよりお買い物。私は買い物の必要もなく全く人任せ。

グエル邸からレイアール広場へ。ここで昼食のお店のめぼしを付けランブラス通りへ。サンジョセップ市場を横に見て(市場に入りたかったな。取りフルーツやアーモンドを買っても良かった)チュロスのお店へ。目当てのお店はしまっていたがすぐ近くのチョコレートも美味しいと評判のお店へ。ここのチュロスはホテルで食べたものより格段に美味しい。チョコレートもアフリカからいいココアが入ってくるせいか味が深い。お店を出る頃雨が降り出し雨宿りに入った靴屋でしばし女性陣の買い物のお付き合い。カラフルなお店。雨が止んだころオリーブオイルの店へ。道に迷ったらしく昼休みなのだろうこの辺で働いていそうな男性に道を聞いていたら同僚の日本人がやってきて説明してくれた。元の奥様がスペイン人で1985年からスペイン在住だそうだ。すぐ目の前のレストランですしを握っているそうだ。うちのパエリアも美味しいです、この人が作りますと道を聞いた男性を紹介され彼のお店に入店。2回のテラス席に案内されくつろいで昼食を取ることができた。サングリア、オリーブ、コロッケ(コロッケはバルセロナが発祥)、シーフードパエリア 、どれも美味しかった。帰りに日本の方に声をかけてもう1度オリーブオイル屋を聞くとそこよりも安くていいお店があるという。説明してもらいその店で最後の買い物。ホテルに集合時間の10分前に着いた。完璧。

バルセロナでお買い物

帰途持ってきた本は全部読んでしまったので旅行の要所をメモをまとめた。

 

帰りはまたドーハ経由で。今度は13時間ほど。疲れた。

 

消費税はあるものの住民はなし。年金も充実してるし教育費も大学は年に10から20万ほどかかるらしいがあとは無料。日本とはいろいろ条件が違うがなぜこんなに違うのだろう。

 

 

スペインは観光立国だけあって見所満載です。

 

 

スペインの歴史年表

ローマ帝国の支配(紀元前2~5世紀初頭)

ボエニ戦争でカルタゴを破ったローマはイベリア半島を制圧。植民都市が建設されキリスト教が伝わるなどローマ化が進んだ。

 

西ゴート族の侵入(5世紀~711年)

ローマ帝国が衰退するとピレネー山脈を南下してきた西ゴート族が王国を建設。560年にはトレドに首都が置かれた。

 

イスラム支配時代(711~1492年)

711年、アラブ系ベルベル人を主力とするイスラム教徒が北アフリカから侵入。半島の殆どを占領してその土地を「アル・アンダルス」と呼び、首都をコルトバにおいた。

 

スペイン統一(1492)

半島に残るイスラム教徒最後の砦であるグラナダ王国がカトリック両王により滅ぼされレコンキスタ(国土回復戦争)が完了。同年にはコロンブスが新大陸に到達した。

 

内戦から現代まで(1936~)

第一次大戦後の政治的混乱のなか、共和国政府に対しクーデターを起こしたフランコ将軍率いる反乱軍が3年にわたる内戦の末に勝利。フランコがなくなる1975年まで独裁体制が続いた。その後ブルボン家の王政復古がなされ現在にいたる。(地球の歩き方ースペイン ダイヤモンド社2019)