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永平寺に行ってきた

足立区は北千住にある歯周病センター 院長の横田です。先日福井の永平寺に行ってきました。

 

7月22日連休の初日、東海道新幹線で米原経由特急しらさぎで福井へ。新幹線はガラガラでしたがしらさぎは満席。辛うじて席を確保し福井へ着きました。駅では恐竜のお出迎えです。駅から永平寺までは京福バスで直接永平寺へ。

永平寺は鎌倉時代に道元が開いた山号を吉祥山と称する曹洞宗の大本山です。日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は、中国で仏教を学び、帰国後京都に興聖寺というお寺を建立して、そこで説法に励みましたが、旧仏教勢力の比叡山から激しい迫害に遭いました。道元禅師は迫害を避けて新しい道場を開くために越前国(現・福井県)に向かうことになり、1244年に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立し2年後に吉祥山永平寺と改めました。

入り口に建てられた2本の石柱に刻まれている言葉は

灼底一残水(しゃくていのいちざんすい)

汲流千億人(ながれをくむせんおくにん)

道元さんが谷川で汲んだ水を使われ、その灼の底に残った水をそこらに捨てることをせず、元の谷川にきちんと戻されたところから生まれた言葉と言われています。

その水はその下流で多くの人々が汲み命を永らえていくのです。

これが、永平寺最初の門の両脇に立っています。

道元に関して有名な2つのエピソードがあります。1つは典座(てんぞ 食事係)の話で道元が入宋して間もなく阿育王山の典座と出会い問答の中で「あなたはまだ修行や経の文字の意味が分かっていない」と言われます。後にこの老僧(かなりの高僧だったらしい)と再会して「修業とは?」と聞くと、「目の前にあるではないか!あなたの生活そのものだ」といわれます。また、師と仰いだ天童如浄上人が座禅中に居眠りをした修行僧に「座禅は心身脱落でなくてはならん、居眠りなどしていてはいかん」と言われた時にはたと得悟し、曹洞禅を継ぐことを許されたというお話です。心身脱落は身も心も自由にという意味だそうです。

 

入山して5か月の若い修行僧から建物について、見学の心得について説明があり建物を見て回りました。訪れた日は気温33℃、山の斜面を利用して建てられている伽藍は回廊でつながれています。

雪深い所だからこうでもしないと冬は行き来が出来なくなってしまうのでしょう。瓦の修理の寄付を募っていましたがいくばくかでも置いて来ればよかった。

どこからでも風が心地よいです。アルハンブラ宮殿を思い出しました。

トイレも廊下もピカピカでさすが曹洞宗の修業の場です。現在永平寺には120名の修行僧がいて、朝は4時に起きて日課をこなし、夜10時には就寝だそうです。食事係(典座てんぞ)は朝2時起きで10名で120名の食事を作るそうです。実際に作っているところや掃除、読経の様子も見たかったのですが予約が必要だし朝4時前に来ることはできなかったので残念でした。

拝観している人は案外若い女性が多く意外な感じがしました。

 

曹洞宗といえば禅です。体験で参禅しました。大講堂に3,40名集まりました。最初に所作や心得を説明されました。壁に向かい男女に分かれて30分瞑想しました。杓を叩く人もなく、随分緩い感じの体験でした。まじにやったら出来ないのがわかっていて緩くしているのでしょう。それでも自分の股関節が硬いことは十分認識出来ました。

道元は「正法眼蔵」の中で用を足すことは大切な修行であり作法に従い、御仏として行わなければならないと説いています。40年も昔に同書を読んだことがありましたが日常の行動の作法について延々と書いてありなんてつまらない本だとその時は思ったのを思い出しました。

参観に来た方の控室などがる傘松閣には2回に156畳敷の絵天井の間があり昭和5年当時の著名な画家144名による230枚の美しい色彩画が天井に飾られています。

緊急事態宣言が出ていない福井で久々に仲間と宴会をしました。その日から福井ではインターハイがあり、それで周辺のホテルは予約が取れにくくなっていたようです。翌日は一乗谷の朝倉遺跡へ。こちらも良かったです。帰りは特急しらさぎも新幹線もガラガラでした。

 

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